スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

FMの政治番組も面白いぞ

今、 「 オンザウェイ・ジャーナル(月間寺島実郎の世界)」(TOKYO FM) を聞いている。 寺島実郎氏と高野猛氏とのトークショーである。 耳から鱗!みたいな話が聞けた。面白かった。 今日は中国建国60周年、その意味を話していただいた。60年前は蒋介石率いる国民党が毛沢東率いる共産党に破れた歴史であり、国民党がもし勝利していたら日本の復興は30年遅れていただろうの話を初めて聞いた。それは、戦中米国内には国民党を支援する人々からなるチャイナロビーがあり、日本を追いつめ、大東亜戦争では国民党+共産党が米軍の支援で勝つことができた。チャイナロビーの中心にマスコミの大物がいたそうだ(名前失念)。その後、内線で共産党が本土を掌握し、国民党は台湾を支配する。 そこで、チャイナロビーが台湾ロビーになり、共産党を封じ込めるとう視点から日本を西側の一員に取り込むという筋書きができ、その通りに進む。まさに中国の内紛は日本にとって僥倖だったのことだ。如何に米国の政策が一国と地域の発展と進行に大きな影響を与えるのか、また、それには熱い思いを持つロビーストが世論を作り出して行くのかが興味深かった。つまり、マスコミを通じて世論形成をしていたのだ。 ほとんどは部分的には知っていたが、大きな流れで見た時、なるほどそういった歴史だったんだと、大東亜戦争と戦後の復興に意味を与えることができるのか、と興味深い。 なお、この番組は1週遅れで podcast されている。でも、FMで聞き逃さないように集中して聞くのがお勧めだ。 寺島実郎氏はTVのコメンテータとしても露出度が高いが、話は理路整然としてためになる話が多い。今後も注目だ。そして、昼間は音楽ばっかりなのに日曜日の朝や、平日の夜(cutting edge/J-wave)はビジネスマンの情報源として大いに参考になるぞ。

足し算な人、掛算な人

エンジニアを今の生業にしているが、振り返るにエンジニアにも足し算な人と掛算な人がいるなと、風呂に入りながらつらつらと考えた。 足し算は1+1=2であり、1kgの砂糖と1kgの塩を混ぜたら2kgとできるが、1秒と1gは足せない。 でも、掛算は違う。1×1=1だけど、1m×1m=1平方メータ(m^2)と違う物理量になる。移動距離(m)を移動時間の逆数(1/s)で掛ければ、速度(m/s)になる。もう一度移動時間の逆数で掛ければ加速度(m/s^2)になる。そしてこれに重さ(kg)を掛ければ力(N=kgm/s^2)になる。 これをアナロジーに人に当てはめてみたのが先の風呂での思いつき。 ”足し算な人”は頑固。何処まで行っても、同じ直線上にあって、それでいて細かいことを言うと非常に奥行きがある。1=0.9999999...の議論のように、深く深く考えることができる。 それに対して”掛算な人”は、発想がぶっ飛んでいる。別々のものを組み合わせて全く別のものを思考できる。コロンブスのタマゴ的な発想ができる人だ。 どちらが偉いとか言う次元の話でなく、そういった傾向を持つ人が確かにいるなと思い至ったのだ。 エンジニアの最大の幸せは初めて実用化したことにあり、その発想の根底には掛算にある。携帯電話にカメラを付けたら写メールのコミュニケーションが生まれたとか、クロック波形にジッタをわざと持たせたら電磁放射ノイズが下がったとか、その例は枚挙にいとまがない。 それに比べて、足し算な人は科学や数学、哲学の分野に多いと思う。 何で光の速度は観測系によらずに一定なのだろうかのアインシュタインや、古代漢字の起源と万葉集の関係を追い求めた白川静とか、線の上をあっちに行ったりこっちに来たり、あっちから眺めたり、こっちから眺めたり、そのまなざしが非常に鋭くて、深い洞察が得られるまでそこを離れないぞみたいな感じがする。 エンジニアには掛算的な発想が必要で、時間がかかる足し算的な敬遠される。もしかして他の広告の人とか、新ビジネスを考えている人は掛算な人かもしれない。というより、世の中全体が、一所で一生懸命考え続けることを良しとしなくなったのかもしれない。掛算的思考を大急ぎで組み合わせて、何かおもしろいものは無いのかと、ビジネスになることは無いのかと時間あたりの最大効率化を追い...

「高速道路のあり方」の記事に思う

本日(2009.10.18)の毎日新聞朝刊に坂村健氏「 時代の風 」 「高速道路のあり方」 に賛成である。 趣旨はETCの柔軟な課金機能を積極的に利用して、渋滞解消と環境保護を両立させよということである。例えば、渋滞が続けば課金をどんどん高くして、すいているときは無料とする案を示している。これを動的無料化というそうだ。 もっと考えを進めて、ETCは一台に一セットが基本なのであり、車種情報も入っているのだから、燃費情報を加味した道路課金をすれば良いと思うのだ。EVはどこでもタダ、HEV/PHEVは半額、燃費グレード が付けられたガソリンエンジン車は2倍とかね。 ここの視点が坂本氏がなかったのが残念。車の環境対応を本質的に進める、特に、低コスト電気自動車の開発を一気に進めてここで産業を再興するというシナリオを描いてほしいものだ。

今年最後?の真鶴シュノーケリング

台風18号が去った週末に真鶴に行ってシュノーケリングして来た。 死滅回遊魚を見るためだけど、いやー、きれいな海だった。透明度が違う。いつもの2倍の10mくらい先は見える。お目当てのチョウチョウウオは並チョウと呼ばれるチョウチョウウオ(12cmサイズ)とアケボノチョウチョウウオ(500玉サイズ)が見えた。オヤビッチャやソラスズメダイなどの常連とも遊んで来た。 琴ヶ浜は西側がテトラで囲まれているので少しだけ海水温が暖かで薄手のウエットスーツしか持ってない身にはうれしい。でも、海パンだけでシュノーケリングしている人もいるんだな。スゲー。 潜るといつもパチパチとか、ピチピチとかの表現の音が聞こえるんだが、これって、底の岩が転がっている音かと思っていた。どうも底生動物の出す音らしい。 近所の図書館で見つけた 竹村 暘著 「水生動物の音の世界」 この本によるとテッポウエビの仲間が出すテンプラノイズ(flying noise)らしい。これらのエビは「片側に巨大はハサミを持っており、その稼働指及び不動指の内側には各々プリンガーとソケットと呼ばれる突起と受け口を持っている。発音時にはその稼働指をほぼ直角になるまでいっぱいに開く。この時稼動指はいったん関節のストッパー機構により停止させられるが、その後稼動指にハサミを閉じる力が加わった瞬間ストッパー機構から解き放たれて、稼働師の内側に附いたプランガーが不動指のソケットに激しく打ち付けられ強力な衝撃音が発生する。」のだそうだ。 福井やその他の海に潜ったときにその音が気になったことを思い出した。 ネットで調べてみると「 ウニが出している音」 と言うのもあった。これはサンゴ礁での日に海の騒音らしい。でもテンプラノイズもあまり知られていないらしい。webの数も少ないです。 著者は40年海の音を研究されて来た方なので間違いは無いでしょう。この本には色々気がつかされました。海や川では視界が陸上ほど利かないこと、水中の音速が空気(330m/s)の4.5倍も速い1500m/sであること、そのため、水生動物は聴覚を頼りにしているはずだがまだ多くのことがわかっていないこと。特に魚では、圧力感知としての内耳と、速度感知の側線があり、内耳では鰾(うきぶくろ)が共鳴器になって音が増幅されている。また、側線も圧力差か...

もう既に省益優先か、大臣

補正予算のムダ削減対象の総額は昨日(2009.10.07)の段階で約2兆5千億円で目標の3兆円に届かなかったそうだ。TVで放映されている部分は、各大臣がこれ以上は無理とか、相当頑張ったとの省よりの発言。 本来、各大臣は内閣総理大臣の代理人で、内閣総理大臣を長とする行政機構である内閣を担うものであり、そのための行政官僚を動かすことにある(参考: 飯尾潤著の「日本の統治機構」 )。政権交代がなされ、行政の連続性より不連続であっても変革を望んだ国民の信託にこれら国務大臣は答えているのだろうか。 各省庁とも数千億の規模の事業仕分けをこれだけの短期間でしたのだろうか。時間が短いことを考えると、上の発言は行政官僚から「不連続性による混乱」を強調されて、挫けた姿に見える。 混乱結構。政権交代の歴史的意味を考え抜き、国益優先で望んでほしい。

空高い秋の気持ちよい日に(ヒヨドリとハヤブサ、時にオオムラサキ)

今日(2009年10月04日)息子と、日本野鳥の会(神奈川支部)の真鶴探鳥会に参加してきました。目当ては三ッ石(真鶴半島先端)を渡るヒヨドリとそれを追うハヤブサです。三ツ石は行ったことが無かったのですが、大潮で潮が引いており先端まで歩いて渡れるほど岩が露出していました。 目当てのヒヨドリは100羽クラスの群れが森から海へと飛び出すのですが何処からともなく現れるハヤブサに翻弄されて中には1羽補食されてしまいました。この狩りのシーンは本当にダイナミックさを感じます。ハヤブサも頑張って捕らえよ、ヒヨドリも命を賭けて逃げよ、と言った気持ちになりました。 ハヤブサは2羽で、雄雌のようです。雄のハヤブサが1羽のヒヨドリを捕まえるところを目撃できました。 と、見ているとヒヨドリに附いて飛び出す鳩がおり、見るとアオバト2羽でした。10:45頃です。ヒヨドリとは別に戻って来たのですが、もどってきたなり常緑の樹に停まって10分ほどして2羽で眠ってしまいました。羽の色から大人のメス2羽のようです。解散する13:00までその場所でズート眠っていました。 この岬で4年観察されてる真鶴の民宿「ひるさいど」のオーナによると、ヒヨドリの渡りのピークは10月20日頃で、押されるようにヒヨドリの群れが後から後から渡って行くそうです。それも初島の南東ではなく三ツ石から東の海の方へ飛んで行くのだそうです。でもアオバトが観察されることは少なく、真鶴ブルーラインの料金所でよく見られるそうです。 帰りの途中によった大磯、万代こゆるぎの森では星槎学園がミニ展覧会を行っており大磯の虫、蝶を見てきました。蝶は61種類観察されており、オオムラサキもいるそうです。コツバメという珍しいチョウチョもいるそうです。石神台の方で、鈴木さんをご存知でした。 というわけで、空高い秋の気持ちよい日を鳥や蝶で楽しんだ良き日でした。

スゴイ本だ。水村未苗著「日本語が亡びるとき」英語の世紀の中で を読んで

スゴイ本だ。 ここまで、日本語の来し方と、行く末を深く考察し、今何をすべきかを解いた本に出会ったのは初めてである。これまでも、大野晋「日本語練習帳」、山口仲美「日本語の歴史」、山口謠司「日本語の奇跡」、小駒勝美「漢字は日本語である」など話題の本、タイトルが興味深い新書を読んで来た。 所がである。歴史の流れ、特に近代の日本が置かれた帝国に飲み込まれないかねない危機的状況の中で、それを回避せんがため如何に日本語を国語として発展させざるを得なかったを見事に書き下している本には出会わなかった。それは父親の仕事の関係で12歳で渡米したものの米国と英語に馴染めずにかといって帰国できる訳も無く、日本文学全集を読むことで自分の孤独感を紛らわせ、日本人としてのアイデンティティを保とうとして来た著者のその生い立ちに追うところが大きい。人は自分の立ち位置を離れ相対化することで、初めて自分の立ち位置がはっきりと分かるようなのものであろう。それゆえ、日本で日本人として生まれ育ったものには分からない感覚なのだ。 本書の主題は、もちろん日本語にあり、日本語が滅びるとは叡智を求める人が英語の知の図書館に吸い寄せられ、日本語が光放つことはないという憂いにあるが、それは世界の普遍語として英語が唯一無二となり更にインターネットの普及により更に英語が世界中の知性である読まれるべき書物を引き寄せることの裏返し、日本の無策な教育と日本語の大切さに無自覚さで起こると解く。そして、英語を母国語とする人々の二重言語者の苦悩と無邪気なまでに普遍語としての英語の力について無邪気なまで鈍感さを嘆く。 著者は気がついていないのだろう指摘がないが、無邪気なまでに鈍感な日本人の日本語の心配のなさは、英語を母国語とする英語の鈍感さと同じであると思う。構図は同じである。少なくとも英語を日本語並みにスラスラとは読めない普通の日本人には、日本語を相対化することができないのだ。英語で読み書きし母国語とするネイティブには英語の普遍語としての意味を見いだせないように、日本語しか読む必要の無い日本人にはその価値が分からない。日本語だけの研究でノーベル物理賞を取ったではないか(周りは世界と繋がげることに相当苦労されたと思うが)。だから何となく日本語は大丈夫という感覚は自分の中にもある。 本書は日本語と英語、そしてフラン...