正しく恐れるために正しく知識を身につけなければならない. 低量放射線なら問題無いとする一般向けの本を読んだ[1]. 著者の近藤宗平さんは,コトバンク[2]によると 近藤宗平 こんどう-そうへい 1922- 昭和 後期 - 平成 時代 の 放射線 遺伝 学者 。 大正 11年5月7日生まれ。 国立遺伝学研究所 勤務 などをへて,昭和38年阪大 教授 となる。のち近畿大教授。放射線による 突然変異 の機構を研究し, 損傷 したDNAの 修復 の 誤り ががん化にもつながることをあきらかにした。福岡県 出身 。 京都 帝大卒。 著作 に「人は放射線になぜ弱いか」など。 とある. 第三版改訂版のまえがきに動機と要約している. 「毒か安全かは量で決まる」とパラケルススの経験則をふまえると,1958年に国連原子放射線科学委員会が 採択した 「どんなに微量でも毒だ」の仮説は誤りで,著者の研究結果を踏まえ「放射線を少し浴びた場合でも被曝による傷が体から完全に排除される」ことの科学的根拠を述べた.この「防衛機構がp53タンパク質の絶妙な働きにより」その魅了と感動を読者に伝えたいので第三版に改訂したとのことだ. 序章では著者の原子放射線との係わりが書かれている. 1945年8月6日に広島の被災1週間後の8月13日に第2次調査班のメンバとして参加している.広島駅に着いてしばらく茫然とたっていた.海が見える範囲までい瓦礫と化して市街が消えていた.原子爆弾による破壊だと思ったという.当時京都大学理学部物理学科の実験原子核物理教室の3回生だったそうだ.爆心近くの光景はひどい火傷や怪我をおったって横たわる多数の人で,それは 私たちが繰り返し聞かされるその話なのだろう.ここを読むと改めて広島と長崎への原子爆弾はトルーマン大統領が決断し実行させた,市民を大量殺戮したジェノサイドだったということを思い起こす. 終戦後の混乱期にありラジオ屋や紡績会社の電気係,熊間と大学の付属高等学校での勤務したが,暇を見つけて熊本大学の物理教室に出入りし理論物理学の勉強を始めた.3年後京都に戻り高校に勤めながら物性論の研究の仲間に入った.戦後の物資欠乏期にあって紙と鉛筆と時間があればできる理論物理学は楽しかったという.液体の表面張力の分子論を原島鮮,岡小天,小野周の諸...
50歳になって人生の意味を見つめ直すことが多くなりました。フルマラソンを完走して得た結論が「自分の人生を楽しくするのは自分」という当たり前のことでした。決意し実践し感じる事、楽しくできるんだと。55歳目前で楽しいばかりでなく、人生を豊かにすることも大切です。勉強し、考え、やってみて、感じる。それぞれのプロセスを大切にしたいと思います。 鳥を見る事を通して自然と人の関わりを考えるのが好きです。 東日本での大地震と原発事故をこの国と市民が克服し,より住みやすい社会と地域を作れるよう願っています。 Ph.D(工学)@woodie3wopper