今日は大飯原発が1年3ヶ月ぶりに再稼働するとニュースが伝えている。
USTREAMではタイコに合わせたシュプレヒコールがライブ中継されている。それを1万人を超える人が見ている。
金曜日(2012/06/29)には首相官邸前に大飯原発再稼働反対の市井に人々が集まって原発再稼働のシュプレヒコールを行ったと報道があった。
自分の考えを整理するため、原子力発電とはどういった技術なのだろうか。改めて人類の技術進歩を俯瞰して考えてみたい。
人類が言葉を持ち、交換し、蓄積できたのは他の生き物を圧倒する力となった。事実この200年科学的態度が進展普及しそれに伴い自然現象を利用した技術が次々生み出された。移動を助ける自転車、自動車、電車、飛行機、ロケットは自他のエネルギーを用い、遠隔会話が電話、携帯電話で可能となり、計算機であらゆる分野の情報が精緻化・高度化した。そしてそれらを動かすのにエネルギー特に電気エネルギーがいる。電灯線で各工場・家庭に送られているのはすべて他のエネルギーをいったん運動エネルギーに変え、それをタービンを回す事で電気エネルギーに変換している。水力発電、火力発電、原子力発電すべてそう(太陽光発電だけは違うが)。
原子力発電も原料のウランが核分裂する時に発生する核エネルギーを使って液体の水を水蒸気に変えタービンを回すしているのは、他の発電と原理は同じで有る。ではなぜ、原子力発電だけこれほど多くの人が賛成・反対に別れて争うのか。
2011年3月福島原発1号機の爆発事故で放射性物質が飛散した。その飛散物質は人体に毒性を持っているのが最大の理由だ。それも化学的毒(プルトニウム)だけでなく放射線を放つ核特有の”毒”を恐れているのだ。放射線は大きな線量は短期に致命傷を被曝した人に与える。広島長崎での被爆でもしられている。今回は低線量の被曝だ。
低線量の被曝が長期に渡ると人の遺伝子をだんだんと傷つけ細胞の癌化の原因となると見られている。チェルノブイリの原発事故では周辺の多くの子供達が甲状腺の癌を患った。この原因が原発事故由来である事は科学的に受け入れられているようだが、それ以上にどの位の放射線を浴びるとどの位病気になるのか公式見解も曖昧で有る(正確には信じられないという思い込み)も不安を増長させている。この原子力発電の原料自身が毒性を持つと言うのが第一の原因である。
しかしこの毒性を持つ材料の恐れは人類にとって初めてでも特異な事でもなかろう。これまでも、原料や生成物が毒性を持った物質で公害として人々が苦しめられ、また、これを乗り越えて来た。その歴史から原子力発電を見ると何が違うのだろうか。
火は水を掛ければ消える。火は温度を下げれば基本的に解決できる。化学的毒は防毒マスクや防護服で覆えば例え工場事故であっても回収は短時間で終了させる事ができる。しかし、福島第一では一年も経ったのに人がまだ入れない。人が入れて処理ができない。それはなぜか。
放射性物質から出てくる放射能が原子レベルでそれを遮蔽するのが容易で無いことが挙げられる。福島原発の原子炉炉心でのとても高い放射線量では人は即死し、これを法基準にするには鉛の遮蔽で厚さが何mも必要になってしまうのだろう。すなわち事故現場の原料や中間生成物自身を人が触れない事に難しさがある。しかも冷やし続けないと核連鎖反応が起こり放射能が指数的に増加してしまうので大容量の水で冷やす必要がある。これも現場での作業を困難にしている。
・特に事故を起こした原子力発電の危険性は、その原料と生成物を人が触れない事そのものに内在する。
2012年現在は人類はひとが触らずに爆発炉心を適切に操作処理できる技術を持っていない。すなわち、いったん事が起こると解決できる技術が無い。このため、人に代わるロボット技術が望まれるが、まだ未熟で部分的にしか使えない。これまでの人類の科学的工学的進歩を考えると未来永劫原子力を手なずけできない事はなかろうが今現在のロボット技術では無理なのだ。ロボット技術が進展すればいづれ可能になるのであろう。
しかしながら原子力発電でも事故そのものは起こさないという技術は本質的にできないだろう。人智を超えた事象は必ず起こる。これは科学的に証明されたわけでもなかろうが、安全を担保できる基準以上の事態が起こる確率はゼロにならない。例えば、隕石が炉心を直撃することを予測して避けることは出来るだろうか。例えば、国家レベルの犯罪者が
その気で炉心を壊しにきた時に対処できるだろうか。事故は防げないとして政策を立案する必要がある。
原子力発電の場合、失敗や大事故が許されない。影響が広範囲に及ぶためだ。600km離れた伊豆大島でも放射能が基準値を超えた。原子炉を人が住んでいないところに作るだけではダメで空気・水循環の及ばない閉鎖された空間に作らないと隔離できない。それでは経済性に難ありであろうし、それゆえ経済に見合った規模の圧力容器に閉じ込めてそれを建屋で覆ったという作りが今の原発だ。それでも爆発した。いや、それゆえ爆発を止められなかった。原子力発電は経済の枠がはめられており、そもそも無限の安全性を追求できないという第2の課題がある。つまり、原発の安全性に無限にお金はつぎ込めない。
結論として2012年の人類には原子力事故を手なずける知恵も経験も実力も無い。人智を超えた天然災害、人災が有りうる以上、原子力発電に事が起こった時にそれを収める術が人類には無い。今の大飯原発の再稼働は、そんな災害が来ない事を願って決定したのだろう。つまり神頼みの政策。そこには福島事故の反省も本質を見つめることもしていないことが分かる。
故に大飯原発再稼働に反対する。今年の夏の電気不足で関西経済が止まるかもしれないことを恐れ原子力発電を再開するのは、その本質は神頼みと何ら変わる事が無いからである。
USTREAMではタイコに合わせたシュプレヒコールがライブ中継されている。それを1万人を超える人が見ている。
金曜日(2012/06/29)には首相官邸前に大飯原発再稼働反対の市井に人々が集まって原発再稼働のシュプレヒコールを行ったと報道があった。
自分の考えを整理するため、原子力発電とはどういった技術なのだろうか。改めて人類の技術進歩を俯瞰して考えてみたい。
人類が言葉を持ち、交換し、蓄積できたのは他の生き物を圧倒する力となった。事実この200年科学的態度が進展普及しそれに伴い自然現象を利用した技術が次々生み出された。移動を助ける自転車、自動車、電車、飛行機、ロケットは自他のエネルギーを用い、遠隔会話が電話、携帯電話で可能となり、計算機であらゆる分野の情報が精緻化・高度化した。そしてそれらを動かすのにエネルギー特に電気エネルギーがいる。電灯線で各工場・家庭に送られているのはすべて他のエネルギーをいったん運動エネルギーに変え、それをタービンを回す事で電気エネルギーに変換している。水力発電、火力発電、原子力発電すべてそう(太陽光発電だけは違うが)。
原子力発電も原料のウランが核分裂する時に発生する核エネルギーを使って液体の水を水蒸気に変えタービンを回すしているのは、他の発電と原理は同じで有る。ではなぜ、原子力発電だけこれほど多くの人が賛成・反対に別れて争うのか。
2011年3月福島原発1号機の爆発事故で放射性物質が飛散した。その飛散物質は人体に毒性を持っているのが最大の理由だ。それも化学的毒(プルトニウム)だけでなく放射線を放つ核特有の”毒”を恐れているのだ。放射線は大きな線量は短期に致命傷を被曝した人に与える。広島長崎での被爆でもしられている。今回は低線量の被曝だ。
低線量の被曝が長期に渡ると人の遺伝子をだんだんと傷つけ細胞の癌化の原因となると見られている。チェルノブイリの原発事故では周辺の多くの子供達が甲状腺の癌を患った。この原因が原発事故由来である事は科学的に受け入れられているようだが、それ以上にどの位の放射線を浴びるとどの位病気になるのか公式見解も曖昧で有る(正確には信じられないという思い込み)も不安を増長させている。この原子力発電の原料自身が毒性を持つと言うのが第一の原因である。
しかしこの毒性を持つ材料の恐れは人類にとって初めてでも特異な事でもなかろう。これまでも、原料や生成物が毒性を持った物質で公害として人々が苦しめられ、また、これを乗り越えて来た。その歴史から原子力発電を見ると何が違うのだろうか。
火は水を掛ければ消える。火は温度を下げれば基本的に解決できる。化学的毒は防毒マスクや防護服で覆えば例え工場事故であっても回収は短時間で終了させる事ができる。しかし、福島第一では一年も経ったのに人がまだ入れない。人が入れて処理ができない。それはなぜか。
放射性物質から出てくる放射能が原子レベルでそれを遮蔽するのが容易で無いことが挙げられる。福島原発の原子炉炉心でのとても高い放射線量では人は即死し、これを法基準にするには鉛の遮蔽で厚さが何mも必要になってしまうのだろう。すなわち事故現場の原料や中間生成物自身を人が触れない事に難しさがある。しかも冷やし続けないと核連鎖反応が起こり放射能が指数的に増加してしまうので大容量の水で冷やす必要がある。これも現場での作業を困難にしている。
・特に事故を起こした原子力発電の危険性は、その原料と生成物を人が触れない事そのものに内在する。
2012年現在は人類はひとが触らずに爆発炉心を適切に操作処理できる技術を持っていない。すなわち、いったん事が起こると解決できる技術が無い。このため、人に代わるロボット技術が望まれるが、まだ未熟で部分的にしか使えない。これまでの人類の科学的工学的進歩を考えると未来永劫原子力を手なずけできない事はなかろうが今現在のロボット技術では無理なのだ。ロボット技術が進展すればいづれ可能になるのであろう。
しかしながら原子力発電でも事故そのものは起こさないという技術は本質的にできないだろう。人智を超えた事象は必ず起こる。これは科学的に証明されたわけでもなかろうが、安全を担保できる基準以上の事態が起こる確率はゼロにならない。例えば、隕石が炉心を直撃することを予測して避けることは出来るだろうか。例えば、国家レベルの犯罪者が
その気で炉心を壊しにきた時に対処できるだろうか。事故は防げないとして政策を立案する必要がある。
原子力発電の場合、失敗や大事故が許されない。影響が広範囲に及ぶためだ。600km離れた伊豆大島でも放射能が基準値を超えた。原子炉を人が住んでいないところに作るだけではダメで空気・水循環の及ばない閉鎖された空間に作らないと隔離できない。それでは経済性に難ありであろうし、それゆえ経済に見合った規模の圧力容器に閉じ込めてそれを建屋で覆ったという作りが今の原発だ。それでも爆発した。いや、それゆえ爆発を止められなかった。原子力発電は経済の枠がはめられており、そもそも無限の安全性を追求できないという第2の課題がある。つまり、原発の安全性に無限にお金はつぎ込めない。
結論として2012年の人類には原子力事故を手なずける知恵も経験も実力も無い。人智を超えた天然災害、人災が有りうる以上、原子力発電に事が起こった時にそれを収める術が人類には無い。今の大飯原発の再稼働は、そんな災害が来ない事を願って決定したのだろう。つまり神頼みの政策。そこには福島事故の反省も本質を見つめることもしていないことが分かる。
故に大飯原発再稼働に反対する。今年の夏の電気不足で関西経済が止まるかもしれないことを恐れ原子力発電を再開するのは、その本質は神頼みと何ら変わる事が無いからである。
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